30年ぶりに戻ったら (118) — 信頼レベルのデフォルトがここまで高い!

【誰も現金をネコババしないんだ!】

日本では現金を郵送する制度がまだ残っていると知って驚いたのは昨年だった。そんなことはヨーロッパではあり得ない。少なくとも制度としては。

日本は相当に人を信じられる社会だと思ったが、そういうわたしを更に驚かせることが最近立て続けに起きた。

今月は布施明のコンサートに行こうと、チケットを電話で申し込んだ。申し込み書など書かなくても口頭でチケット申し込みができること自体が驚きだが、その代金支払方法はチケットが郵送されてきたときに代金と引き換えるという。え?

初め何を言われているのか、訳がわからなかった。わたしはそんな郵便物の送り方があることを知らなかったのだ。

数日後、わたしはコンサートの切符を届けに来た郵便局の人に、チケット代の現金を渡した。

現金をものを運んで来た人に直接渡す?ネコババの可能性はないんだろうか?

このように先ず疑うわたしは、ヨーロッパ生活が長くなり、頭の中に持っている信頼に対する常識が日本とは違ってしまったんだと思う。

こんなことも起きた。

母の通うデイケアサービスの料金は一ヶ月ごとに払うが、その支払方法といえば、母が現金運搬人となり、お迎えの車に乗ってデイケアセンターに持って行くというもの。月初めになるとそれぞれ数万円を持った老人が、送迎車に乗ってくるのか?それを狙って襲いかかる強盗はいないのだろうか?ーーいないんだろうな。

母のお弁当宅配サービスだってそうだ。毎月最終日にその月一ヶ月分の料金をお弁当を持って来た人に支払うことになっている。一度、銀行振り込みはできないか、配達の人に尋ねてみた。振り込みもOKのようではあったが、できれば現金で、という口ぶりだった。

これに類した話はまだまだありそうだ。

日本では人に現金を託すということが、いとも簡単に行われている。預かった現金をネコババする人も、現金を持ち歩く老人に襲いかかる強盗も、この国にはいないのだ、きっと。

頭から人を善だと信じてかかれる社会は安全で住みやすいに違いない。

反面、信用を推し量る知恵が未発達だと思うこともある。一度疑いだしたらキリがないというか、何をどこまで信じるかという基準が、人の心に無いように思う。

例えばマイナンバーカードの扱い方。あんなに個人情報の保護を金科玉条にしていては、かえってナンバーの活用を遅らせるのではないか?フランスやスイスにもそれに類した番号はあったが、わたしは易々と随所の書類に記入していた。そういう物だと思っていたから、日本のマイナンバーのガードの堅さは理解ができなかった。

これはどちらが良い悪いという話ではありません。世界はこんなもんだということで。

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学びのポイント: 疑うことを知らない心もいいが、疑い出すと歯止めが利かないという融通の利かない面もある事は確か。信頼にもほどほどに線を引く方が生きやすくないか?

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