津波と震災の被災地に行ってみた。
今日は三月十日。明日で、東日本大震災からちょうど一年になります。
今年のお正月休みは日本で過ごしましたが、その機会に、津波の被災地を訪ねてみました。震災と津波は、ジュネーブにいてもショックな出来事でしたが、どうしても一度自分の目で見たかったのです。
実を言うと、ためらう気持ちもありました。ただ見に行くだけでは、物見遊山のようで、被災地の方に申し訳ない、と。背中を押してくれたのは、同期生の友人、Aさんでした。彼は、震災の日からずっと仙台にいて、通信の復興に尽くしてきた人ですから、地域のことは知り尽くしていました。
そういう人が、「見るだけでもいいから、行くといい」と言ってくれたので、心が決まりました。
私の日記から ———
2012年正月八日 日曜日、仙台の先、仙石線に乗って、野蒜(のびる)に行ってみる。
朝6時起床。7時20分には家を出る。
晴天の関東平野。筑波山を右手に見ながら、仙台へ。
何も無いじゃない?―防風林の松林が目の前に広がる。仙石線、野蒜駅には被災の痕が残っている。駅舎二階に「美しい野蒜を取り戻そう」と、書かれた子供の絵が貼ってある。でも、眼の前を見ると被害が見えない。
海岸まで歩いて、浜を見下ろす堤防の上に立ち、薙いだ美しい海に頭を下げた。それから踵を返して、松林を突っ切ろうとして、気がついた。
松林の外に門柱らしい石の柱が見える。
近づいてみると、家の跡だった。その隣は土台のコンクリートが残っていた。アルミの鍋の蓋が、砂地に埋もれていた。何も無いと思ったのだが、この一帯は、瀟洒な住宅の建ち並ぶ地区だったのだ!
何も無いこと、何も無くなってしまったことこそが、この景色の語る情報だったのだと、やっと気がついた。
被災した家や学校のような建物も遠くに見える。流され尽くした家と、一階部分が大きな損傷を受けたものの、二階はそのまま残っている家と。何がその明暗を分けたのかは、目で見ただけでは分からない。
野蒜に着くまで、松島海岸で電車を降り、代行運転のバスに乗ってきた。道中目をこらしたが、被災の爪痕は全く見られなかった。
それが、野蒜に来るとこの有様。なにが津波被害のある、なしの線を分けたのか?
牡蠣の養殖が盛んな地域らしい。松島海岸のあたりでは、あちこちに牡蠣を食べさせる店、取れたての牡蠣を小売りする店の看板を見る。野蒜のあたりも、海水浴場があって、夏は賑わっていたのかしら、などと考えてみる。
がれきの後始末の大変さなど、想像の手がかりになるものは、既にほとんど無くなっていた。それでも、景色の見方のコツが分かってくると、根元から折れた街灯、途中から無くなった橋の欄干などに気がつく。それらが壊れる前の様子を想像するに、ここにはそれなりの街と人の暮らしがあったのだろう。それらが根こそぎ無くなってしまっていること、それこそが、被災した土地の今の姿の現実なんだろう。
帰路、バスで通りかかった東松島町の中央公民館で、成人式が行われていた。振り袖の女の子はともかく、男の子も何人かが着物を着ていたので、ほほう、と思った。日本も変わったものだ。
この平和な光景を見ていると、この辺り一帯に津波が襲ったとはどうしても想像できない。被害に遭うか否かという大きな明暗が、何のどういうちからで分かれたのか?
休暇の終わりに、ここに来られて良かった。東京から日帰りという、とても短い時間だったが、報道の映像からはわからない、地域の全体像を想像する手がかりぐらいは掴めた、、、かな。
おととい、金曜日にAさんに会ったのは偶然じゃなかった。前から、被災地をこの目で見たいと思っていた。その願いが思わぬきっかけで叶った。彼にお礼状を書こう。