スイスのブロードバンド事情
はじめに
スイスでは、ブロードバンドはよく普及しており、技術面での問題はなく、意欲的な利用者も多い。しかし、それが人の手に渡る時、多言語社会スイスならではのブロードバンドの根付き方、あり方が見えてくる。
サマリー
ここでは、最近日本からジュネーブに転勤してきた「谷畑さん」の幾つかの経験を通してスイス流ブロードバンドのありかたを紹介する。彼女は架空の人物だが、思いがけないところで完全主義、ドイツ語中心のサービス、多言語社会の現実的乗り切り方など、ここに語られる彼女の経験は、単純化してあるものの、エピソードはすべて事実である。
多言語国家のスイス
スイスのブロードバンドはよく普及している。技術に問題はない。
私の住むジュネーブでみていると、使う人々の側にも、意欲的な人は多いと思う。例えば、ジュネーブには、20年前にWWWの誕生したことでも有名な欧州原子核研究機構(CERN)、スイスで最高の研究教育機関の一つ、ジュネーブ大学等の高等科学研究機関があるが、どちらにも、なんでも先端技術を使うのが大好き!という人々は大勢いる。
また、ジュネーブには数々の国際機関や、大手外国企業のヨーロッパ本社があるが、そういう組織では、最近広報部長クラスの人々の中に、自らTwitterやFaceBookの利用者となり、それらを広報ツールとして利用する途を模索する人が増え始めた。また、マルチメディア担当のポストを新たに作り、若い人をそこに採用して、同じことをさせる企業もある。
ジュネーブは州全体でも人口46万人と、日本の諸都市に比べれば小さいが、利用者の技術を使いこなす能力、意欲に不足はない街なのだ。
だから、利用者としても、すっかり暮らしのインフラになり、普段は気にすることもないブロードバンドがすべて上手く動いている間は良い。
が、一旦なにか、普段と少し違ったことが起きると、途端にスイスらしい事情が顔を出す。そこには、スイスが人口760万人、つまり東京都よりも少ない人口の国でありながら、4つの国語を持つ多言語国で、そのうえ非スイス人の人口が公式統計で21%、実際にはもっと多いという社会背景がある。重国籍が認められているスイス、スイス国籍の他に幾つかの国籍を持つ人は多いが、その人口は公式統計ではスイス人とカウントされるからである。そこに更に、山の民の伝統を持つ国民性、みたいなものが絡む。
多言語、多民族社会の生活感覚とはどんなものか、日本という、単一言語で、日本人が圧倒的多数を占める社会にいると、どうしても実感が掴めないものだ。
少しだけ、数字をあげて説明しよう。
スイスの4つの国語の人口比は、ドイツ語が約64%と過半数を占め、フランス語が20%、イタリア語6.5%、ロマンシュ語は0.5%と続く。その他に、英語など、スイス国語でない言語を話す人口が9%。その比率はイタリア語、ロマンシュ語より多いことに注目して欲しい。こういうところ、いかにもヨーロッパの中央にあり、古来、ヨーロッパと、更にその地続きの地域から人々が往来してきた国らしい。
そういう社会の中で、ブロードバンドはどのように息づいているのか?それを、フランス語圏スイスの中心地、ジュネーブの利用者から見るとこうなるということを、「谷畑さん」の経験を通して見ていこう。彼女は日本からジュネーブに転勤して来たばかり。彼女は架空の人物だが、ここに語られる彼女の経験は、単純化してあるものの、起きたことはすべて事実である。
肝心の所に競争は無い
谷畑さんは、家が決まったので、電話とインターネットの手配をしようとスイスコム(スイス最大の電話会社)の営業所に行った。
電話は難なく決まった。インターネット(DSL)は、4つのサービスカテゴリーから「スーパーファスト」という高速メニューを選ぶ。ルーター込みで月額69フラン。これが高いか安いかは、ジュネーブに来たばかりの谷畑さんには分からない。それでも、何につけてもジュネーブの物価高に驚かされる日々、ここは無駄な抵抗はしないことにする。
電話の開通は2日でオーケー、なのにインターネットは3週間かかるという!彼女は交渉したが、 係の人はスマートな外見に反し、かたくなにダメの一点張り。
インターネット接続を提供する会社(ISP)相互の競争はあるものの、肝心のDSLの回線工事ができないわけだから、スイスコム以外のISPを選んだところで、開通までの日数に変わりはない。利用者の欲しいところに競争は無いことを、彼女は悟る。
ここまで完全主義!?
電話線は開通した。が、電話機の調子がおかしい。 谷畑さんは電話機を持って、営業所に行く。電話機の入っていた箱をまだ捨ててなかったので、それに電話機を入れていく。あー捨てないで良かった。
応対に出た営業所の人、箱の中を見て、一緒に入っていたウレタンフォームは?箱にかかっていた紐は?皆持って来て下さい。
そこまで何から何までひっくるめて持ってこいと言うの??
ドイツ語中心主義
電話を申込む時に、谷畑さんは、係の人から、今後電話会社から来る請求書など、家に送られる書類の言語を選べると言われた。独仏伊のスイスの公用語の他に、英語の選択肢がある。彼女は、フランス語に自信がない。さすが国際的国家スイス!と思い、迷わず英語を選んだ。
一月後、スイスコムからなにかの書類がドイツ語で来た!何の書類か、谷畑さんにはサッパリわからない。英語を指定したじゃないの、、。
彼女は、再び電話会社の営業所に出向く 。
あ、この書類には英語の選択は無いのです。あなたは英語を選んだのですが、英語の選択がない場合、システムは自動的にドイツ語を選ぶのです。
じょーだんじゃない。スイスではドイツ語の全くわからない人々の便宜は、無視?住所を見てよ、ジュネーブよ。フランス語圏じゃないの。気を利かせてよ、、、。谷畑さんはこうして、お客が何も言わなくても、ちゃんと気を利かせてくれる日本のサービスをなつかしく思い出すのだった。
今後こういうことのないように、あなたの言語選択はフランス語に変更しておきます。フランス語なら、周りの人にすぐ聞けるでしょう。
結局、英語のチョイスは事実上無し。次善の策だが仕方ない。谷畑さんは、困ったら同僚の助けを借りることにして、フランス語を選ぶことに同意する。
数日後、またドイツ語の通知書が電話会社から届く。それも、なにやらサインのいるような、大事な書類のようだ。しかし、ドイツ語はお手上げ。周りにもドイツ語を助けてくれる人はいない。
もーーどうなってるの?!
また営業所に行く。これで三度目。
この前フランス語に変更したでしょう?どうしてまだドイツ語なのっ?
営業所の人もさすがに気の毒そう。あれこれコンピュータを見て、調べてくれた。「わかりました。あなたに届いたそのレターは、前回、フランス語に変更してから2日後に発送されています。言語変更には3日かかるのです。」
コンピュータでしょう?顧客データの変更なんて一瞬で出来ないの!?
これがスイスの流儀かも知れない、と谷畑さんは考え始める。
いつも多言語とは限らない
ある週末、谷畑さんの自宅のインターネットが繋がらなくなる。なにかの故障かもしれない。説明書を見ると、ヘルプデスクの電話番号が書いてある。
言葉の心配はあったが、とにかく電話をかけると、仏独語の音声ガイダンスが出てくる。慌てていると、最後に英語が出てくる。ほっとして、指示通り、1番2番と選択肢のプッシュボタンを押す。
ややあって電話に出てきた人、英語を話すが、少々不慣れのようである。それでも、英語が通じることに意気を強くした谷畑さん、問題の起きたことを、相手に分かるよう、ゆっくり話して説明する。
ヘルプデスクの人は、ジュネーブ担当の技術者が来週あなたの家に見に行くという。その為には、週明け月曜日に、かくかくの番号に電話して予約せよ、と言う。
週末はネット無し。まだ友達もいないジュネーブ、週末にはウェブで「龍馬伝」を見ようと、わざわざ高速メニューを選んだのに。週末に働く技術者はこの国にはいないと諦め、月曜日朝、待ちわびて、教えられた番号に電話をかける。今度はフランス語しか通じない!!!!
相手は親切な人で、訥々とした英語で、5分後にかけ直してくれという。同僚の中から英語のわかる人を捜しておくから、と。
またお客に電話をかけ直させるのか??と思ったが、ここで文句を言ったところで、彼には通じないだろう。谷畑さんは、ちょっとあんた、、、という言葉を飲んで、電話をかけ直す。
数日後、谷畑さんの家に来た技術マンが、フランス語人であって、英語を話さなかったことは想像に難くない。それでも、彼は丁寧にDSLの接続を調査し、結局はちゃんと直してくれたのだった。
Eコマースはゆっくり成長
スイス生活にも慣れてきた谷畑さん、町のコンサートホールで、地元のスイスロマンドオーケストラ公演のポスターを見た。クラッシック音楽は大好き!ほっと一息着きたかった頃だったので、夜自宅でコンサートホールのウェブサイトを見てみた。
ここで、またびっくり。コンサートチケットがオンラインで買えない。会場はジュネーブを代表する音楽芸術のセンターである。なのに、コンサートチケットを買うには、町のチケットオフィスかプレイガイドに行く他ない。その上、これらのオフィスは、土曜日には遅くとも5時に閉まる。ジュネーブでは、お店はすべて5時にピシャッとシャッターを下ろすのだ。
こうして、食料品、新居に必要な品々等を買い整えるため、あちこちの店を廻る土曜日が、更に忙しくなる。
後日談だが、谷畑さんは、あのとき後1ヶ月待てば、演奏する本人のスイスロマンドオーケストラのサイトからチケットを買えたことを知った。そしてここでも、街をよく知らないということは、小さくて大切なことを知らないばかりに、いろいろ遠回りするものだということを知る。
外国人の思い込み
スイス生活にも慣れてきて、谷畑さんは、名刺をオンライン プリントショップで作ろうと思った。友人に聞いたウェブサイトを見ると、英語の画面が出てくる。自分の居住国を選ぶ指示があるので、「スイス」をクリックする。と、ドイツ語に画面が切り替わる。英語は勿論、フランス語の選択肢もない。
スイスに住む人は、全員ドイツ語人だと思っているのだろうか、このサイトの制作者は?こういうところに、外国人のスイス観がヒョイと顔を出す。
そういえば、自分も日本にいた頃は、多くの言語を話す人が共存する社会のあり方なんて想像もできなかったと、谷畑さんは思い出す。
国民に開かれた政府サイト
谷畑さんは、ちょっとした調べ物をするために、連邦政府のウェブサイトを見てみた。
連邦政府のウェブサイトには独仏伊英語の4カ国語のページがある。ただ、情報量もその順番になってしまうが、それでも、よほど詳しいことをウェブに頼って調べる場合でない限り、不便はないようだ。
ウェブサイトに記述された情報を補うのが電話である。連邦政府でも、州政府でも、ウェブサイトには税金、消費者行政など、各担当課のページに、担当者の氏名と電話番号が載っている。市民は、その人々に直接電話をかけられるのだ。谷畑さんは、自分はスイス人ではないので、おそるおそる電話をかけた。すると、電話に出てきた担当の人は丁寧に質問に答えてくれた!
谷畑さんは、こういうところは、国民が全員参加する直接民主制の伝統を引く、スイス社会の開かれた面ではないかと思い当たる。政府は国民の代表、という基本がしっかりしている。だから、役所に一市民が電話できるのは当たり前。この精神が、開かれた政府の基本にあるんだろうなと。
スイスのブロードバンドは、こういう社会を支えるインフラとして活用されている。人と社会と技術とのギャップは、多かれ少なかれどこにでもある。スイスにはスイスなりのギャップと、その乗り越え方があるのだ。こうして技術はその社会の色合いを身にまといながら、人と共存していく。
結びー技術を社会に生かすために
技術がある社会に根付く時、技術はその社会の有り様を色濃く反映することになる。スイスも例外ではない。多言語でのサービス提供という事実ひとつを取っても、利用者の目で見ると、サービスを与える側の見落としている不便さ、ちぐはぐなことはあちこちに出てくる。それらを、利用者の立場に立って少しでも解消することは、技術を人と社会に生かすための大切な仕事だと思う。
*この原稿は、2010年6月、KDDI総研発行誌のコラムに採用されたものです。発行者様の同意を頂きここに転載しました。