30年ぶりに戻ったら (104) — ハンコとサイン

【知っているようで知らない○○】

知っているようで知らないことは人生に沢山あるが、注意していないと気がつきにくいことも確かだ。そして私はそういう自分の思い込みの殻をパコーン、パコーンと割って行くのが好きだ。1つ割る度に、自分がまた少し自由になった気持ちがするからだ。

例えば、ハンコとサイン。

私は、日本にいた頃は、日本のハンコと西洋のサインは同等だと思っていた。

ヨーロッパでサイン生活を30年続け、また日本に戻ると、それは間違った思い込みだったと気がついた。

今週は母が退院し、デイケアや、デイサービスを利用することになった。そのために契約書など、多くの書類に私はハンコを押したわけだが、その時に気がついた。

母が契約者、私がその代理人になるのだが、どの書類も全て私が住所氏名を記入した。ハンコも全て私のものを押した。担当の方に尋ねると、それでいいと言われたのだ。はい、了解です。

けれども、内心「これ、おかしいなー」と思った私には、ヨーロッパで大小様々の契約をし(携帯電話を利用するのだって契約が必要だ)その度にサインしてきた習慣が染みついているのだろうか。母の住所氏名を私が代筆するのは構わない。けれども、そのハンコは、例え私が押すにせよ、母のハンコを使わなければ辻褄が合わないのではないか?

私は、堅苦しい形式に沿って契約書を書くべしとは思わない。契約行為の本質に照らして必要ないなら、簡略化はありがたい。けれどもね、、、とまだ心のざわつく私がいる。

ハンコには、絶対的な効力が余り無いのではないか?

これがサインならそうはいかない。ヨーロッパならこういう場合は母が震える手でサインするだろう。サインは本人にしかできないからだ。

サインとは本人の誓いなのだと私は思う。私は○○に書いてあることを約束します、同意します、という意志の宣言なのだ。そこには強烈な存在感を持つ個人がいる。

ここで思い出した。

私は日本の伝統的に外貨に強いと言われるある大手銀行に口座を持っていた。30年間の長きに亘って、細々とだがおつきあいがあった。

日本帰還に伴い、その銀行である手続きをしなければならなかったときのこと、私がある書類にサインするとそのサインでは受け付けられないという。

最初に口座を作ったときのサインが必要だという。

私はのけぞった。これは大袈裟ではない。😲

サインは生き物だ。書いて書いて書いて書いていくうちに少しづつ変化する。ましてや30年間、私は何度サインしたか分からない。私のサインは30年前ののそれと大きく変わっていて何の不思議もない。

サインはハンコではないのだ。人の手でその都度書くのだから、ハンコのように固まったままの存在ではない。

私本人が、日本政府が保障する私自身のIDであるパスポートを持参して、あなたの目の前でサインしているのです。それが信頼出来ないんですか?

銀行の人はダメだという。彼女は私の言うことは理解出来るが、30年前と同じサインをすることが銀行の規則なのだという。

はーーこれが日本史上最初に外貨を扱った銀行か?と思ったが、ここで無駄な抵抗は止めることにした。

私は、銀行の担当の女性に応援されながら10回ぐらい昔のサインをまねて書き直し、やっと何とか昔のサインに似せたサインに成功したのだった。ふう。

これはどちらが良い悪いという話ではありません。世界はこんなもんだということで。

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学びのポイント:自分が「これは知ってるからいいや」と思った時は、もう一度それを見つめ直すチャンス。無意識の思い込みに気がつくかも知れない。

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