ジュネーブと国際会議と(5)街の人の目線で見る国際都市 ジュネーブ

ジュネーブは、なぜ国際都市なのでしょうか?

ここには、国連欧州本部や、ITU等の、国際機関が多数あるうえ、それらの加盟国の代表部も多数あります。また、ジュネーブでは、大小の国際展示会や、コンファランスが、1年中開かれています。1月の国際高級時計見本市や3月の国際モーターショウは、日本でもよく知られていますね。

観光客も世界中から訪れます。夏と冬のバカンスシーズンには、高原での避暑、アルプスでのウィンタースポーツが大勢の人を引き付けます。

ところが、そういった華やかな人の往来は、国際都市ジュネーブを形作る重要な一面ではありますが、その国際性を語るには、まだ半分ほどにしか過ぎません。

ジュネーブに住み初めて間もなく気がついたのですが、この地の国連と街の人々との間には、どうも溝があるのです。お互いに関心を持っていないというか。

そこで、今月は国際会議を離れ、この街に住む人々に視点を当てようと思います。そうやって、街の人の目線から、国際都市ジュネーブの奥行きに、一歩踏み込んでみましょう。

読者の皆さまも良くご存知のように、スイスは、欧州の真ん中に位置し、欧州内の人の往来する地域でした。また外交では、どの強国の支配も受けない、スイスなりの“中立”を政策として来ました。第二次大戦後だけでも、何十万人もの外国人を受け入れ、社会に同化させてきました。そのためのルール、具体的ノウハウも、教育、社会政策など、随所に蓄積されています。

そもそも、スイスは国の起源からして、規模こそ小さくても最初から多民族国家でした。スイス民族も、スイス語もありません。「ヘルベチア連邦」(スイスの正式名称)の名の下に、多数の州(カントン)が、異なる言語や文化を互いに容認し合い、一つの連邦として、近代、現代の欧州を生き抜いて来ました。

その流れは今も続いています。ジュネーブにも、いろいろな理由で外国から移り住んだ人々の二世、三世がスイス国籍を取得し、スイス人として根付いています。彼、彼女たちの国籍はスイスですが、従って「スイス人」と呼ばれる人々ですが、その祖先の出身地がスイスではないのです。その意味で、 彼、彼女らもまたジュネーブという土地の国際性を形成しているのです。

そういう人々は、ジュネーブには大勢います。おそらく、何十万人の単位と言ってもいいのではないでしょうか。私の友人や知人が、たまたまそういう人々の一人だったと知るとき、私はこの街の奥行きの深さに打たれるのです。

そんな人を一人、ご紹介しましょう。

リディアさん、私の友人です。彼女はボー州(ジュネーブの隣の州 )の生まれで、スイス国籍を生まれたときから持っています。

母方の祖父母は、旧ユーゴスラビアから、戦争の難を逃れ、子どもを連れてスイスに移住。遠い親戚を頼ってベルン(ドイツ語圏スイス)まで来て、そこに定住したそうです。

その娘である母は、スイス人との結婚をきっかけにフランス語圏スイスに移住。その時にリディアさんは生まれました。

リディアさんの母親はユーゴスラビア人ですが、リディアさんは、フランス語しか知りません。なぜなら、母親は家では決してユーゴスラビアの言葉を子どもたちに話さなかったからです。当時のスイスでは、ユーゴスラビアは共産圏と見なされていました。彼女は何度も肩身の狭い思いをしたのでしょうか。自分たちが安全にスイスで暮らすためには、スイスに同化することです。だから、彼女は子どもたちにスイスの言葉だけで教育しました。

そしてまた、リディアさんの母親自身も、必死でスイスの言葉である独仏語を学んだそうです。「母は今でもユーゴスラビアなまりのあるフランス語を話すのよ」と、リディアさんは語ってくれました。

こうして、リディアさんは、ユーゴスラビア人を母にもちながらも、スイス人として育ちました。

ところが意外なことに、彼女の夫はユーゴスラビア人だそうです。リディアさん自身は、ユーゴスラビアとは、文化的にも地理的にも切り離されて育ったというのに。そうなった彼女の内心は私には、とうてい推し量れません。それでも、彼女のように公式に、スイス人としてジュネーブに暮らす人々の中には、程度の違いはあっても、スイスの他にも、他の土地の文化や、血縁を持つ人は、決して少なくないのだろうと想像を馳せます。

「あなたは何人」と、単純に言えない人々が大勢いるという現実に、ジュネーブではあちこちでぶつかります。リディアさんの他にも、いろいろな事情から、自身の育って来た過程に、いくつもの国、いくつもの言語が交錯している人々が、大勢います。そういう人が大勢いるのがジュネーブであり、スイスという国なのです。

そういう人々は、育つ過程で多かれ少なかれ、国際感覚をごく自然に身につけています。ジュネーブは、そういう人々の大勢住む、筋金入りの国際社会といえます。

このような人々は、国連を中心とする国際社会とはやや違う場所にいます。多言語、他人種からなるジュネーブ、スイスの社会を理解しようとするとき、こういう人々が「スイス人」として大勢暮らしていることもまた知っておかなければならないと思うのです。

掲載: ITU ジャーナル Vol. 43, No. 8, 2013年8月号

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